「密着!パラアスリートの肖像」〜車いすテニス・眞田卓選手 vol.2〜

2018/10/16

眞田卓にとって、今シーズン最初の国内戦での勝利が目の前に迫っていた──。

4月30日、ブルボンビーンズドーム(兵庫県三木市)で行われた「DUNLOP KOBE OPEN 2018」男子シングルス決勝。この時点での世界ランキングは眞田が8位に対し、相手のHo Won Im(韓国)は同32位。今年10月のアジアパラ競技大会(インドネシア)では金メダルを狙う眞田にとって、勝って当然の相手と言っても良かった。

ところが、思わぬ"番狂わせ"が起きようとしていた──。

劣勢な局面で生きたメンタルの強さ

第1セット、眞田は自らのサーブゲームをキープし、好スタートで切り出した。そして、6ゲーム目を終えた時点で4-2と眞田がリード。試合はこのまま進むかと思われた。

しかし、眞田のサーブゲームの7ゲーム目、30-40からダブルフォルトでこのゲームを落とすと、潮の目が変わり始めた。続く8ゲーム目をキープされ、さらに9ゲーム目ではこの試合初めてブレイクを許す。3ゲーム連続で失い、ゲームカウント4-5。優勢だったはずの試合が、いつのまにか劣勢に立たされていた。

結局、6-6と並び、このセットの行方は、タイブレークに持ち込まれた。そのタイブレークでも、先に5-2とリードしたのは眞田だった。ところが、相手がここから2本のリターンエースを含む5連続ポイントで、一気に逆転し、このセットを奪い去ってしまった。

第1セット、眞田は自らのサーブゲームをキープし、好スタートで切り出した。そして、6ゲーム目を終えた時点で4-2と眞田がリード。試合はこのまま進むかと思われた。

まさかの展開に、会場には動揺した空気が流れていた──。

だが、当の本人に焦りはなかったという。ベンチに戻り、エネルギー補給をしながら、眞田は第1セットを落とした原因が自分にあることを冷静にとらえ、すぐに次への準備にとりかかっていた。

「ファーストセットはミスが多くなった際に、少しリスクを負ったダウン・ザ・ライン狙いで局面を打開しようとしたのですが、かえって自分のプレースタイルが崩れてしまった。なので、セカンドセットはより"いつも通り"を心掛けて、左右前後に動かしてオープンコートを狙うというスタイルのテニスを貫こうという考えで入りました」

勝因は貫いた"いつも通り"

その第2セット、互いにブレイクし合い、ゲームカウント1-1とした後、3ゲーム連続で奪って5-1とリードを広げた眞田。7ゲーム目こそラブゲームで相手にキープを許したものの、最後はサーブに苦戦しながらも相手のオープンコートにきれいにウィナーを決め、6-2で奪ってみせた。

続く第3セットは互いにブレイクし合う中、最後は眞田が実力の違いを見せた。5-3と眞田リードで迎えた9ゲーム目、2本のリターンエースを決めてみせると、マッチポイントを迎えた際には、粘る相手にロングラリーの展開に持ち込まれるも、"いつも通り"のプレーを貫き通し、最後は相手のバックハンドのショットがネットにかかり、眞田の優勝が決まった。

その後に行われた男子ダブルスでも、齋田悟司と組んだ眞田は、韓国ペアに勝利。シーズン最初の国内戦を二冠達成という結果で終えたことに、安堵の表情を浮かべた。

「今大会、いい結果で終わらせられたことは良かったなと思いますが、これからが大事。格上の選手との試合を制して、アジパラでの金メダル、そして東京へとつなげていきたいと思っています」

4年前のアジパラでは、シングルス決勝で国枝慎吾にストレート負けを喫し、銀メダルに終わっている。今年は"4年越しのリベンジ"を果たすつもりだ。

「アジパラで金メダルを取れれば、東京でのメダルも見えてくる」と眞田。5カ月後に迫った"ステージ"に向けて、戦いの日々が続く。

PROFILE

眞田卓(さなだ・たかし)

1985年6月8日、栃木県生まれ。中学時代にはソフトテニスで県大会ベスト4進出。19歳の時にバイク事故で右膝関節の下を切断。入院中、リハビリで車いすテニスと出合い、2011年からパラリンピックを目指し、本格始動。翌2012年ロンドンパラリンピックに出場し、シングルスでベスト16、ダブルスでベスト8。世界マスターズには2014年、2015年と2年連続で出場。日本マスターズでは2015年に初優勝を果たした。

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